昨日訪れた八王子いちょう祭りが想像していたよりも楽しかったので、また訪れてみた。しかしコロナ禍で規模縮小しての開催とはいえ、この人出(陵南会館のエリア)。盛況といえるのではないか…(→翌日ニュースによると45万人来場したらしい)。
昨日訪れなかった陵南公園の本園に立ち寄ってみた。相模原市緑区のブースがあり、津久井城など、近隣の古城について紹介していた。津久井城の郭の地図などを載せた冊子なども置いてあり、興味深く思ったが、こちらはすべてPDFファイル化してあり、公式サイトで閲覧できるとのこと。助かる…。
陵南公園から、久々に御陵線の跡地を通って長房南団地の方に行ってみた。
御陵駅の跡地にある近藤内科医院。
この分岐の右側が御陵線の廃線跡
三軒在家稲荷神社付近の御陵線跡地は、10年以上昔は小さな民家が建ち並んでいたが、それが解体され、空き地に雑草が生い茂り、しかも砂利道なものだから、以前よりも廃線跡らしい風景に戻っていた。
三軒在家付近は1960年代から家が建てられることなくそのまま畑として畑や空き地として残されてきた。長房の風景がもっとも昔のまま残されている場所と言えるのでないか。もしかすると戦前から家が建てられたことがないのでないか。
微妙に高台となっている三軒在家
1624年頃(寛永)、榎本、岸、遠山の三軒が移住し来り、三軒在家発祥のもととなる。
1923年(大正12年)3月、三軒在家にはじめて電灯ともる。
1971年(昭和46年)8月、三軒在家の幹線道路改修なる。
(引用:「三軒在家むかしといま」 青木助三編著 昭和58年10月1日発行 (1983年) )。
三軒在家(さんけんざいけ)
長房町の旧小名・小字、同町の東南部、慈眼寺から富士森高校辺までの南浅川の北岸ぞいの地をいう。
(引用:「八王子事典」 改訂版 2001年出版 かたくら書店)
住宅地や空き地の中に古い民家や祠が残る
三軒在家まわりは昔のままの、人しか通れない細い砂利道
昔、三軒在家稲荷神社のまわりはこのような通じていた。
引用:「三軒在家むかしといま」 青木助三編著 昭和58年10月1日発行 (1983年)
「三軒在家むかしといま」によると、鎌倉街道は三軒在家稲荷神社のわきの道を通っていたらしい。
鎌倉街道は三軒在家を通っていた
~略~
では三軒在家を通っていたとされる鎌倉街道の道筋はどこだろうか。土地の古老などの話を統合すると、舟田の月夜峰(共立女子学園のあたり)から丸山(長房第一団地西北端)を通り、毛利ポンプ店わきにかかるルートが最も有力視されている(第一ルート)。
しかしこのルートのほかに次のような説もあるので、どちらをとるべきかにわかには断定し難い。こちらの説は、二分方で別れて横川(横川町)から舟田の自由が丘、長房第二団地、横山橋、散田新地(並木町)、散田(散田町)、俗称「お林」を経て二軒在家で第一ルートに合する(第二ルート)。
実はこの長房地区には、以上のルートのほかにも中郷地内を通っていたとされる別のルートがあったのである。それは、松木から川原宿(下恩方町)に出て、川村(川町)、中宿(元八王子町)と来て、陵墓地内を通って中郷へ抜け、原(東浅川町)を経て大戸に向う(第三ルート)。
この道は、のちに後北条氏が興り、関東一円の政治の中心がその根拠地である小田原に移って、氏康の子氏照が八王子城を築いたころには、「小田原街道」または「小田原みち」とも呼ぶようになった。ただし大戸から先は上溝(相模原町)、松田(松田市)、小田原とその流れを変えるようになる。
三軒在家 広域地図 1920年頃の地図|1930年頃の地図|1950年頃の地図|1963年頃の空中写真|1970年頃の地図|1975年頃の空中写真|1980年頃の空中写真|1985年頃の空中写真|1990年頃の空中写真|現在の地理院標準地図|現在の空中写真|OpenStreetMap| 別ウィンドウ表示 ※画像の読み込みに時間がかかります。 |
三軒在家 拡大地図 1963年頃の空中写真|1975年頃の空中写真|1980年頃の空中写真|1985年頃の空中写真|1990年頃の空中写真|地理院標準地図|地理院空中写真|OpenStreetMap| 別ウィンドウ表示 ※画像の読み込みに時間がかかります。 |
三軒在家 拡大地図
三軒在家の高台の上にたつ三軒在家稲荷神社
稲荷社
創建の年代は明らかでないが、改築前の社殿は間口一間半、奥行一間であった。現在の社殿は間口二間、奥行一○尺の拝殿部分と、一間四方の本殿部分から成り、「昭和九年三月一五日起工、同年四月七日竣工、拝殿改築総工費一七三円八銭」であった旨の記録がある。用材の多くは、当時新設した横山橋の残材払下げ分を含め、榎本亀太郎が寄付し、工費のうち五一円五〇銭は住民一八人の寄付金によった。このとき付近にあった天満自在天神と、御岳社を合祀したという。
なお鳥居は昭和八年四月に完成、この費用四一円五〇銭、石段は昭和一〇年三月の完成である。ちなみに、この社の正式名称を「正一位字川稲荷大明神」という。神体は紛失してしまっていまはない。
三軒在家稲荷神社参道の石段
昭和拾年(10年)3月完成の刻印あり 三軒在家稲荷神社
三軒在家の高台から眺めた高尾駅の高層マンションパークハイツ
三軒在家から長房南アパートの方に向かう。古い墓や畑や未舗装の小道の遠方に都営長房西アパート&南アパート高層住宅群が見えるのはとても長房団地らしい風景のようにも感じる。
解体された都営長房南アパートの55、56、61、62、63、64号棟の一帯は仮囲いで覆われ侵入できないようになっている。
建て替えられた巨大な都営長房アパート西19号棟
船田古墳のある遺跡公園
昔から位置が変わらない公園
団地建て替え前からそのまま残してあるバナナの木だろうな~と思って見ていたら…
なんとバナナの実が成っていた。バナナってこういう風に実るのか。
皮が下に落ちていた
遺跡公園に残る古いコンクリート製のベンチや鉄柵は昭和時代から変わらずあるものだ。
都営長房南アパート 50、51、52、53、54号棟の解体工事はほとんど終わって更地になっていた。
公園も何もかもなくなってしまった。
案内図に貼ってある貼り紙類は変わらない
新栄商店街
日曜だからか?どの店も営業していなかった
ただしスナックは別。このお店は昼から外に歌声が聞こえるほど大きな音量でカラオケしていて盛況みたい。
こちらのスナックも新しい液晶案内パネルが点灯に設置されていたので、常連さんがいるみたい。
ただコロナ禍で潰れてしまったスナックもある。
南浅川沿いにある斉藤製作所
いつもはほとんど閉まっているが、いちょう祭りにあわせて営業中になっていたので立ち寄ってみた。
作業所のような雰囲気だが、店頭で「石」を売っている。
磨かれた貴石も多かったが、鉱石系もあったのでゴッシュナイト(緑柱石単結晶)を1点購入。
隕石もあった。軽かった。海外の砂漠産らしい。
リチア雲母
砂の中から宝石の粒を探すグッズなどもあったので、子供も楽しめると思う。ゴッシュナイト(緑柱石単結晶)を買ったらおまけでアメジストを付けて頂いた。
南浅川沿い、南浅川橋近くにあった喫茶店「コーヒー美花夢」の建物が解体されて駐車場に変わっていた。
帰りにイーアス高尾に寄っていったが、銀だこが12月1日・2日・3日に390円セールを開催するらしい。嬉しい。
昨日はいちょう祭りの屋台店舗で細々と買って食べたが、今日はイーアス高尾店のペッパーランチを利用してみた。以前から気になっていたのを初めて食べてみた。自分で鉄くステーキは少し焼きすぎてしまったか、硬かった。ハンバーグは美味しい。あと甘口のソースが美味しかった。
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