同潤会 上野下アパートメントハウス
東京都台東区東上野5丁目4番
建設完成生年月日 1929年4月30日
棟数 2棟、 4階建て
戸数 76戸
モーリス・ベジャール追悼公演「ザ・カブキ」を東京文化会館に見に行く前にふらっと立ち寄ってみた。
見学会にも行きたかったなあ…
集合住宅 団地 高層マンション アパートメント Apartments
「軍艦アパート」という名称で有名だった市営下寺住宅、その解体中の風景。
戦前、大阪はスラム化が進んでいたが、 この地域も不良住宅が多かった。スラム化を食い止めるための事業として、市営の改良住宅が作られていく。現在大阪の市営住宅は約2126棟あるそうだが、大正14年までに1516戸の市営住宅が作られていた。この突如として木造長屋がひしめく一帯に出現した鉄筋コンクリート造3階建ての集合住宅は、当時としてはハイカラであり、関東大震災の復興事業として建てられた東京の同潤会アパートより数年遅く建てられたが、建築の申請自体は同潤会アパートよりもずっと早かった。実のところは、元々近代的アパートメントを建てたがっていた都市計画家の片岡安が、不足していた資金を調達するため、「不良住宅地区の改良」という名目を用い、住宅事業に乗り気でなかった関一(關一)を説得したようである。現存する鉄筋公営住宅と しては国内最古だが、鉄筋集合住宅としては長崎市高島町端島(軍艦島)の1916年が最古である。同潤会青山アパート、北日東住宅(126戸)、南日東住宅(260戸)はそれぞれ1927年、1932年、1933年に完成している。しかし大阪のRC建築は、下寺住宅・北日東住宅・南日東住宅の3つを建てたところで戦争に突入してしまい、続けることができなくなった。鉄やコンクリートなどの資材も足りなくなり、しばらくの間改良住宅はRCから木造に逆戻りして建てられた。それらの木造の長屋市営住宅が近年まで確認できたそうである。
家賃は、2006年2月時点で200~600円という破格の安さだったらしいが、建設当初は「最高が月10円10銭、最低6円90銭といふべらぼうなやすさ」という1930年11月の大阪毎日新聞の記述とは裏腹に「高い」という意識も住民の間に生じていたようである。それら当初の住民はせっかくのガスや水道の使い方が分からずダストシュートをすぐに詰まらせ、最新の集合住宅をあっという間にボロ屋にさせ、1年足らずで釜ヶ崎や天下茶屋に引っ越してしまった。現在釜ヶ崎や天下茶屋周辺の町がごちゃごちゃしているのはこの集合住宅が失敗したせいだとも言われているそうである。
大阪における集合住宅の形成史
教えて!goo大阪の文化住宅の定義!
教えて!「文化住宅」の謎・・・?
1931年(昭和6年) 竣工
敷地 約7100平方メートル
鉄筋コンクリート造り3階建て 8棟
264世帯
水道・ガス・水洗トイレ・ダストシュート完備
風呂なし
煙突・かまどあり
大阪府大阪市浪速区下寺2-8
▼近隣の家の前に駐車する下寺住宅の工事車両。背後の高層建築にギャップを感じる。
散策当時は大阪の公営住宅があちらこちらに細々と分散しているのを不思議に思ったが、後に大阪の公営住宅は戦前から点在した不良住宅の跡地にできたものであると知った。古いものは解体されつつある。当時は事前知識がなかったので、どうみても廃墟にしか見えない風情に圧倒されが、住民と思しきお爺さんが買い物袋を片手にぶらさげ疲れた様子でとぼとぼと中に入っていく姿を見て、まだ現役だということを知った。
※2010年に閉鎖、2015年に解体着手。
〒556-0003 大阪府大阪市浪速区恵美須西3丁目13-5
近くに馬渕町公園という公園があるが、昭和50年以降に恵美須西という町名に変わったらしく、馬渕町という町名は存在しない。馬渕町は戦後最大のバラック地区だったが、昭和32年2月21日に大火災が発生し(現在恵美公園のある場所)、隣の恵美小学校の講堂が一時的にバラック火災被災者の避難場所にとされた。恵美小学校は明治6年(1883)3月12日に第六大区一小区第一番小学校(通称:今宮小学校)として誕生した(現在校舎は鉄筋)。当時の住所は西成郡今宮村第6番地だった。下寺住宅(解体済)は昭和8年築らしいが、新馬渕住宅は名前に「新」がついているもののかなり古い。昭和37年(1962年)築にしては老朽化しすぎている気もする。
▼2016年4月時点のストリートビュー画像
参考:昭和50年以降になくなった町名一覧(リンク切れ) members.at.infoseek.co.jp/minminzemi69/oosaka/naku.html
C-1棟を残して解体され、2011年頃、跡地にグランファースト千里桃山台が建てられた。
▼UR都市再生機構 公団 千里桃山団地 5階建て(建替え前)。阪急千里線の南千里駅より。
▼千里桃山台団地 ポンプ室
▼住民撤退済み
▼カラスがやたら多い気が
▼住民が撤退して荒れた公園。犬の散歩をしている人もいた。
▼公団 千里桃山団地 地図(建替え前)
▼12階建て高層住宅のUR千里桃山台団地C-1棟。南千里駅より。
公団が突如昭和42に建てた最後の星型住宅。星型住宅は昭和30年代の高度経済成長時代に華々しく登場、老朽化のため解体が進んでいる。
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●1975年の航空写真 千里竹見台団地が確認できる 荒涼として見える
●1970年の地形図 千里竹見台団地 建設前
●1963年の航空写真 東の佐竹台のほうがかなり開発されている
●1947年の航空写真 昭和22年、米軍撮影かな 野山ばかりに見える
●明治時代の二万分一地形図 東の佐竹台のほうがかなり開発されている
▼巨大スターハウスの千里竹見台団地。南千里駅より。
▼千里桃山台団地C-1棟(左)と千里竹見台団地(右)。南千里駅より。
管理戸数 1040
構造 中層
建設年度 S41~S42
経営開始 S42~S43
所在地 吹田市桃山台1丁目・2丁目
▼スターハウスではないけどギザギザっぷりがすごい。遠方に公団千里竹見台団地の巨大スターハウスがみえる。
ビニールのサンシェードが昭和の商店街風味。
▼府営 千里桃山台団地の地図。右下に「S59.11.30現在」の日付。昭和…
千里高野台住宅と共に昭和36・38年に建設された中層耐火住宅。老朽化が進んでいることから、建替事業の対象になっている。※建て替え済み
管理戸数 233
構造 中層
建設年度 S36~S38
所在地 吹田市佐竹台2・5丁目
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管理戸数 1,195
構造 中層
建設年度 S37~S38
所在地 吹田市佐竹台2・5丁目
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昭和37・38年築の中層耐火住宅。構造は千里竹見台住宅と似ており、竹見台住宅と共に建替事業の対象となっている。※建て替え済み
▼団地前の庭の小さな古い祠
戸数約100。NTTの古い星型社宅。2007年中に建替えられるらしい。
※2014年4月のストリートビューでは建替えされていないみたい。
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立ち寄って見たいと思ったけれど、残念ながら立ち寄れなかった市営千里山住宅。阪急千里線の千里山駅の目前にあって、あーフィギュアスケートで有名な関大の近くだーと思いながら通り過ぎ。悔し紛れに電車の中から写真を撮ったけど、やっぱりきちんと撮れなかった・・・。すごく自分の好きな雰囲気だったのに。
※2010年以前に解体された模様。
現・泉町。旧・南多摩郡元八王子村大字下一分方字四ッ谷茶筅村。また下壱分方村(しもいちぶかたむら)字福岡とも。1876年頃には800人以上の被差別部落民が住んでいた(福岡部落)(池田敏雄『人物による日本カトリック教会史: 聖職者および信徒75名伝』 (1968年)140頁)。町名の由来は湧水が多いことから。1972年(昭和47)以降に北浅川南岸の水田地帯を埋め立てて泉町住宅が建設された。丁番を持たない単独町名であり、住居表示未実施区域。
山上卓樹(カトリック伝道師・部落解放運動家)
1855年に裕福な被差別民として当地で生まれた。キリスト教を通じて自由・平等思想に触れ、山口重兵衛らとともに被差別部落への差別に抗議して自由民権運動に参加し、1878年(明治11)に聖瑪利亜教会(せいマリアきょうかい)(現カトリック泉町教会)を建てた。それまでカトリック泉町教会の位置にあった白山神社は廃社になった(本田豊『白山神社と被差別部落』p.113)。1892年の大火で全村のほとんどが灰塵と化したが、1927年に創立50周年を記念して聖堂が再建された。現在の聖堂は当時からのもの。泉町会館・泉町児童遊園がある敷地は山上卓樹や山口重兵衛らの同志の柏木豊次郎の邸宅跡で、民権運動の全盛期は板垣退助が訪れたという。自由民権運動を称える先覚之碑が建立されている。
昔の福岡部落 周辺地図 |
▼泉町湧水群
▼泉町湧水群。豊かな水草。
▼市営泉町団地。北浅川南岸の水田地帯を埋め立てて建設されたという平屋建て長屋家屋群。とっくに解体されてしまったが、昔の都営長房団地もこんな感じだったなあ。
参考:<八王子市 自然体験講座> 元八王子の歴史を訪ねる~若葉の元八湧水をめぐる~[PDF]
参考:Web八王子事典 下壱分方村 http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/ShowContent.php?NAME=%E4%B8%8B%E5%A3%B1%E5%88%86%E6%96%B9%E6%9D%91 (リンク切れ)
参考:Web八王子事典 山口重兵衛 http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/ShowContent.php?NAME=%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E9%87%8D%E5%85%B5%E8%A1%9B(リンク切れ)
参考:Web八王子事典 山上卓樹http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/ShowContent.php?NAME=%E5%B1%B1%E4%B8%8A%E5%8D%93%E6%A8%B9(リンク切れ)
参考:生涯学習情報提供システム <えひめの記憶> 二 自由民権運動と被差別部落 http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/48/view/6432(リンク切れ)
参考:[mixi] 源六郎さん _ 八王子市さんぽ「陣馬街道④・諏訪宿から追分道標」
参考:八王子・泉町を歩く – 三多摩の鐘
参考:カトリック泉町教会 – 三多摩の鐘
参考:カトリック泉町教会 _ カトリック東京大司教区 ウェブサイト
参考:先覚之碑 八王子散歩見聞録
参考:ケイ・スチュワートの世界 19.03部落問題委員会
参考:第9章 被差別部落のたたかい – 多摩 自由民権 自由民権資料館
参考:岡本洋之「明治期多摩における被差別民の運動と教育―山上卓樹(1855-1931)を中心に―」・2014-12-13境界研発表[PDF]
参考:【八王子市の生糸に関する人物】カトリックの浸透<山上卓樹の活躍>
参考:東京都 – 同和地区
参考:泉町 (八王子市) – Wikipedia
参考:Web八王子事典 泉町 http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/ShowContent.php?NAME=%E6%B3%89%E7%94%BA(リンク切れ)
参考:Web八王子事典 泉町住宅 http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/ShowContent.php?NAME=%E6%B3%89%E7%94%BA%E4%BD%8F%E5%AE%85(リンク切れ)
参考:Web八王子事典 カトリック泉町教会 聖瑪利亜教会 http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/ShowContent.php?NAME=%E8%81%96%E7%91%AA%E5%88%A9%E4%BA%9C%E6%95%99%E4%BC%9A(リンク切れ)
参考:叶谷榎池・泉町湧水群と水のまちづくり|八王子市 http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kurashi/life/002/004/004/p006620.html(リンク切れ)
参考:八王子の湧水|八王子市公式ホームページ
参考:ウェブで過去の地形図や空中写真を見る Leaflet版.html
管理が大変厳しい団地で、外から建物の写真を撮っているだけで守衛さんが飛んできて写真はダメだと怒られてしまった。他のサイトさんを見ても「公団なのに部外者を頑なに拒む団地」等と書いてあった。原宿団地物語という小説の題材にもなっていたし、訪れる人も結構いるだろうと思っていたので、神経質で排他的な対応にびっくりしてしまった。
所在 – 東京都渋谷区神宮前三丁目(住居表示変更前の住所は原宿一丁目)
構成 – 6棟から構成、全112戸
中層フラット棟 – 4棟(4階建て、北廊下型)(2、3、4、5号棟)
スターハウス – 2棟(5階建て)(1、6棟)
竣工 – 1957年(昭和32年)
閉鎖 – 2010年(平成22年)
↓東京陸軍幼年学校(建武台)鳥瞰図
「わが武寮 東京陸軍幼年学校史」より
▼戦前・昭和7年ごろ発行の長房団地の周辺地図
(昭和7年発行 東京府・八王子 大日本帝國陸地測量部 二万五千分一 地形図 八王子近傍9号)
まだ京王線はこの地域に開通していない。長房周辺は「三軒在家(さんけんざいけ)」となっているが、昔は家が三軒くらいしか建っていないような場所を三軒在家とか二軒在家 と呼んだらしく、全国的にこの名前の地区があった(近くの「三軒在家稲荷神社(Google Maps)」はその名残と思われる)。
→「三軒在家むかしといま」 青木助三編著 昭和58年10月1日発行 (1983年) によると、『1624年頃(寛永)、榎本、岸、遠山の三軒が移住し来り、三軒在家発祥のもととなる』とのこと。
高尾駅はまだ浅川駅という名前で、「あさかは」と表記されている。中央本線の上には、1929年から1939年まで創業していた路面線路(武蔵中央電気軌道株式会社による市内電車)の路線を確認できる(撤去されて現存しない)。
↓「三軒在家むかしといま」 青木助三編著 昭和58年10月1日発行 (1983年) より
「三軒在家むかしといま」によると、鎌倉街道は三軒在家稲荷神社のわきの道を通っていたらしい。
鎌倉街道は三軒在家を通っていた
~略~
では三軒在家を通っていたとされる鎌倉街道の道筋はどこだろうか。土地の古老などの話を統合すると、舟田の月夜峰(共立女子学園のあたり)から丸山(長房第一団地西北端)を通り、毛利ポンプ店わきにかかるルートが最も有力視されている(第一ルート)。
しかしこのルートのほかに次のような説もあるので、どちらをとるべきかにわかには断定し難い。こちらの説は、二分方で別れて横川(横川町)から舟田の自由が丘、長房第二団地、横山橋、散田新地(並木町)、散田(散田町)、俗称「お林」を経て二軒在家で第一ルートに合する(第二ルート)。
実はこの長房地区には、以上のルートのほかにも中郷地内を通っていたとされる別のルートがあったのである。それは、松木から川原宿(下恩方町)に出て、川村(川町)、中宿(元八王子町)と来て、陵墓地内を通って中郷へ抜け、原(東浅川町)を経て大戸に向う(第三ルート)。
この道は、のちに後北条氏が興り、関東一円の政治の中心がその根拠地である小田原に移って、氏康の子氏照が八王子城を築いたころには、「小田原街道」または「小田原みち」とも呼ぶようになった。ただし大戸から先は上溝(相模原町)、松田(松田市)、小田原とその流れを変えるようになる。
▼昭和49年(1974年)の航空写真 長房団地の周辺。区域ごとに色分けしてみた。
↓八王子市街地消失図 左下に 大字下長房 東京陸軍幼年学校の記載あり
都営長房団地はおそらく長房一帯の中では一番初めに作られた団地群(住民撤退済)。どうやら昭和42年以前の竣工らしい。
▼夏に盆踊り大会が開催された小さな公園と19号棟。遠くでは既に高層住宅の建て替えが始まっている。
▼夏に盆踊り大会が開催された10号棟(左)近くの小さな公園。この区画は後につぶされた。
▼高層住宅に建て替え中の都営長房団地。
▼403号棟
▼場所はこの辺か・・・・・
▼場所はこの辺か
▼412号棟
▼414号棟(左)と413号棟(右) 場所は西の方だと思う
▼宮本商店。郵便局のあるあたり。2008年12月現在、現存。
▼2007年6月8日の都営長房団地。高層住宅に建て替えられてもしばらくフェンスは古いまま。
昭和40年代に建てられた長房団地の中では北団地と並びもっとも高層の5階建てがメイン。古いけれど、コチラの情報によると立て替えの予定はないらしい。
竣工 昭和42(1967)年~49(1974)年(北団地ならびに南団地)
住所 | 東京都八王子市長房町 |
名称 | 都営長房南団地(ながふさみなみだんち) |
概要 | 京王・御陵線の敷地の跡に建てられた団地。かつての線路跡の影響により団地の配置が少しよれている。 |
歴史 | 竣工以前の周辺一帯の歴史については「都営長房団地・低層テラスハウス(解体)」を参照。 |
竣工 | ■昭和42(1967)年~49(1974)年(北団地ならびに南団地)
※北団地ならびに南団地そして第二団地の完成年は不明だが、国土地理院の昭和42年(1967年)発行の地図には記述されておらず、国土計画局の昭和49年(1974年)撮影の航空写真には写っているので、その間に建設されたということになる。 |
構造 | おもに5階建ての中層住宅(?) |
解体 | 2000年頃までは北団地とともに立て替えの予定があったらしいが、コチラの情報によると石原都知事の案により(?)中止になったらしい・・・。 |
交通 |
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地図 | MapFan.web ゼンリン Google Maps Google Street View |
参考サイト | ■私の東京陸軍幼年学校 ■★★★ 八王子市・長房町 ☆☆☆ |
その他参考 | ■八王子図書館の二階に御陵線、幼年学校などの航空写真があるらしい。 ■「多摩 幻の鉄道―廃線跡を行く」 のんぶる舎 ■ 「わが武寮―東京陸軍幼年学校史」 1982(昭和57)年 東幼会 ■赤甍 東京陸軍幼年学校第46期生50年史 東幼46期生会 平成6年発行 ■ 「八王子盆地の風景―写真で綴る少し昔の八王子―」 ■八王子郷土資料館 |