↓東京陸軍幼年学校(建武台)鳥瞰図
「わが武寮 東京陸軍幼年学校史」より
▼戦前・昭和7年ごろ発行の長房団地の周辺地図
(昭和7年発行 東京府・八王子 大日本帝國陸地測量部 二万五千分一 地形図 八王子近傍9号)
まだ京王線はこの地域に開通していない。長房周辺は「三軒在家(さんけんざいけ)」となっているが、昔は家が三軒くらいしか建っていないような場所を三軒在家とか二軒在家 と呼んだらしく、全国的にこの名前の地区があった(近くの「三軒在家稲荷神社(Google Maps)」はその名残と思われる)。
→「三軒在家むかしといま」 青木助三編著 昭和58年10月1日発行 (1983年) によると、『1624年頃(寛永)、榎本、岸、遠山の三軒が移住し来り、三軒在家発祥のもととなる』とのこと。
高尾駅はまだ浅川駅という名前で、「あさかは」と表記されている。中央本線の上には、1929年から1939年まで創業していた路面線路(武蔵中央電気軌道株式会社による市内電車)の路線を確認できる(撤去されて現存しない)。
↓「三軒在家むかしといま」 青木助三編著 昭和58年10月1日発行 (1983年) より
「三軒在家むかしといま」によると、鎌倉街道は三軒在家稲荷神社のわきの道を通っていたらしい。
鎌倉街道は三軒在家を通っていた
~略~
では三軒在家を通っていたとされる鎌倉街道の道筋はどこだろうか。土地の古老などの話を統合すると、舟田の月夜峰(共立女子学園のあたり)から丸山(長房第一団地西北端)を通り、毛利ポンプ店わきにかかるルートが最も有力視されている(第一ルート)。
しかしこのルートのほかに次のような説もあるので、どちらをとるべきかにわかには断定し難い。こちらの説は、二分方で別れて横川(横川町)から舟田の自由が丘、長房第二団地、横山橋、散田新地(並木町)、散田(散田町)、俗称「お林」を経て二軒在家で第一ルートに合する(第二ルート)。
実はこの長房地区には、以上のルートのほかにも中郷地内を通っていたとされる別のルートがあったのである。それは、松木から川原宿(下恩方町)に出て、川村(川町)、中宿(元八王子町)と来て、陵墓地内を通って中郷へ抜け、原(東浅川町)を経て大戸に向う(第三ルート)。
この道は、のちに後北条氏が興り、関東一円の政治の中心がその根拠地である小田原に移って、氏康の子氏照が八王子城を築いたころには、「小田原街道」または「小田原みち」とも呼ぶようになった。ただし大戸から先は上溝(相模原町)、松田(松田市)、小田原とその流れを変えるようになる。
▼昭和49年(1974年)の航空写真 長房団地の周辺。区域ごとに色分けしてみた。
↓八王子市街地消失図 左下に 大字下長房 東京陸軍幼年学校の記載あり
都営長房団地はおそらく長房一帯の中では一番初めに作られた団地群(住民撤退済)。どうやら昭和42年以前の竣工らしい。
▼夏に盆踊り大会が開催された小さな公園と19号棟。遠くでは既に高層住宅の建て替えが始まっている。
▼夏に盆踊り大会が開催された10号棟(左)近くの小さな公園。この区画は後につぶされた。
▼高層住宅に建て替え中の都営長房団地。
▼403号棟
▼場所はこの辺か・・・・・
▼場所はこの辺か
▼412号棟
▼414号棟(左)と413号棟(右) 場所は西の方だと思う
▼宮本商店。郵便局のあるあたり。2008年12月現在、現存。
▼2007年6月8日の都営長房団地。高層住宅に建て替えられてもしばらくフェンスは古いまま。
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